安曇野市豊科郷土博物館公式ブログ

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小林章(1903−1977)の人と芸術
 小林章は明治36(1903)年に西穂高村(現安曇野市穂高)塚原に生まれた。初めは歯科医への夢をもって歯科技工士見習いをしていたが、しだいに彫刻への関心を高め、早くも18歳の時(大正10年)に最初の作品「ゲーテの胸像模刻」を完成させている。翌大正11(1922)年荻原碌山の十三回忌のおりに中村不折や柳敬助の知遇を得て碌山の彫刻に開眼、彫刻家になることを決意し上京した。ただちに川端画学校素描科に入学して彫刻の根幹を成すデッサンの勉強に励んだ。素描科を卒業した昭和2(1927)年、24歳で「立つ女」が日本美術院展に初入選。以来30余年の間院展を発表の場に位置づけた。
 彼は初入選後、美術院彫刻研究所に入り石井鶴三に師事し研鑽を積むとともに、飛鳥・白鳳時代の仏像に心ひかれるようになり、昭和5(1930)年には奈良に赴き仏教美術の研究を深めている。昭和9(1934)年には日本美術院彫刻部主催の国宝鑑賞旅行にも参加して見聞をひろめている。この頃からしだいに小林章独自のスタイルが確立され、弥勒像や観音像などの作品(彫刻・素描)を生み出していった。彼は碌山の影響から、自然と同化していて生命感に満ちたエジプト彫刻に心を寄せていたが、その後、日本の飛鳥・白鳳彫刻のもつ深い内面性、静寂にも心ひかれたこともあり、仏像とエジプト彫刻、さらにはエジプト彫刻の影響を受けた時期のギリシャ彫刻の三者の融合したあたりに生涯を通じて目指すべきものを見いだすに至った。豊科町(現安曇野市豊科)に転居してから10年後の第45回日本美術院展(昭和35年)には木彫「花を持てる少女」(池田小学校蔵)を出品しているが、それなどは古代日本の仏像とエジプト彫刻の美の融合の典型的な作例である。またその作例に関連して、杏仁形の目もとと神秘的な微笑をたたえたほかの作品も、止利仏師作釈迦三尊像(奈良・法隆寺)などの飛鳥仏やアルカイックスマイルをたたえたギリシャ彫刻との近似性を見せている。
 院展末期の第42回展(昭和32年)には「三澤巌先生像」を、第43回展(昭和33年)には「ある教師の像」を、第44回展(昭和34年)には「召田潔先生像」をそれぞれ出品し、ともに白寿賞を受賞しているが、これらの肖像作品群はまた別の傾向であり、どちらかといえば荻原碌山の「北条虎吉」に通うものをもっている。それはつまり〈自己は結局他者との関わりにおいて生かされるのであり、愛あるところすべては芸術〉と仁科惇信大教授(美術史)が解説した荻原碌山の芸術観さながら対象(モデル)への〈愛〉に裏打ちされた真摯な創作であり、造形のうちに対象(モデル)の人生が極めて稠密に凝縮されている。彼は昭和35(1960)年の日本美術院解散までその彫刻部に拠っていたが、その後は彫刻部の有志で結成した日本画府彫刻部に拠るところとなり晩年まで日府展へ作品発表するとともに日府展理事として活躍することになる。
 それら後期の作品はすべて豊科のアトリエで制作されたもので、彼一流の円熟味を加えてきたことは上述の作品群が証明しているが、とくに晩年になってからの代表作「花を持てる少女」(昭和47年)は小林章が生涯のテーマのひとつとしてきた〈少女像〉シリーズの最高の到達点を示している。両性具有ともいうべき〈観音像〉に資生の優しさを加えて現実の人間に置き換えた時に彼の〈少女像〉が創造されるのだとすれば、この「花を持てる少女」のおもざしには彼が求めてやまなかった仏の慈悲が見事に表現されていて、見る者の心を〈安心立命〉へと導くかの感さえある。
花を持てる少女「花を持てる少女」
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